#今週のお題「お父さん」
昨日、6月21日日曜日、父の日。翌22日は母の誕生日なので、実家に帰ってきた。
「実家に帰る」…、なんかいつも可笑しいな、と思う。
30歳で遅い一人暮らしを始め、実家を出てからもう20年以上経つのに、実家を「帰る」場所というのはどうしてだろう。
この20年数年間、引っ越し、結婚、離婚、終の棲家のマンション購入と、いくつもの家に住み替え、今は小さいながらも自分の家を持ち、ここが私の帰る家のはずなのに、それでも、やっぱり、実家に行くことを「帰る」というのは、そこに両親がいるからかもしれない。
50代の娘を持つ父は、健在とはいえ、御年86歳。
年齢数字だけを見たら、想像される姿はかなりのご老人だ。しかしながら、若い頃から体型があまり変わらないせいか(お腹は出ているけど)、シャキッとした格好でいることを常としてきたからか、86歳にしては、すっきりとしたお爺さんである。
父が壮年期の頃、世の中は高度経済成長からバブル。
いつもオーダーの三つ揃いスーツをピシッと着て、その頃まだ稀だった海外出張に頻繁に出ていた父は、密かな私の自慢だった。
また、経済活動の真っ只中をひた走っていた父は、家のなかでも経済人、子供の生活にも経理・経済を説く人だった。
私や弟が家でボケっとしていたり、見るでもなくテレビを観ていると、その時間を年単位で計算して、「お前たちは年間XX時間も無駄にしているようだ。勿体ないと思わないか?」と私たちに数字で見せたりしていた。
その頃、我ら小学生。子供の年間時間なんて、無駄を計算するものじゃなくて、ただ無尽蔵にあるものだったのだけれども、とりあえず、父の前では、かしこまって聞いていた気がする。今思うと、ランドセルを背負った子供が、持てる時間を計算されて見せらている姿を想像して、これも可笑しい。
そんな父が、私たちが子供の頃から、何度となく言っていた言葉がある。
「前髪を掴め」
何の前髪を掴むのか、それは「チャンスの神様の前髪」
「チャンスの神様」は足が速くて前髪しかないんだそうだ。そして捕まえられるのは、その前髪だけで、後ろ姿はツルっとしていて、どこも捕えるところが無いらしい。
だから、自分の横を神様が通り過ぎるときに気が付いても、もう間に合わない。近づいてくるのを察知して、「来た!」と思った瞬間に、ガッと掴まなければ、チャンスの神様は逃げて行ってしまうというのだ。
その言葉を聞くたびに、私は、ツルっとした頭に長い前髪だけをなびかせて、異様な形相で走り去る妖怪「かまいたち」のような神様の姿を思い浮かべ、それを追い駆けバタバタとする自分の姿を想像していた。
チャンスとは誰にでも平等に来るものではない、とも言われた。
本人の努力で引き寄せられるものではないというのだ。
チャンスは運だ。いつ来るかわからないし、どこから来るかもわからない。
ただ、その不平等に突然やって来るチャンスを捕まえて活かせるどうか、それは確実に分かる。広くアンテナを張り巡らして、いつチャンスの神様が来てもいいように、常に自分をReadyにしておく。それは本人の努力でできるものだ。
そしていざ、チャンスの神様の姿がチラッと見えたときに、走り抜ける神様の前髪をガッと掴んで自分に引き寄せていく、それが努力をして生きていくということなのだと。
だから常に自分を磨くこと、周囲を見ることを怠るなと。
父は言いたかったのだろう、幼かった私たちに。
そんなことを言っていた父も86歳。お喋りをしている最中に、ウトウトと居眠りをしてしまうようなお爺さんになった。
娘の年齢は半世紀を過ぎ、「お嬢ちゃん」はすっかり「おばちゃん」になった。
自分ではまだ、「お姉さん」のつもりだけど…
「チャンスの神様の前髪を掴め!」
50歳を過ぎた私は、父が教えてくれたように、チャンスの神様を捉えてこれただろうか?
今も、どこから神様が飛び込んできても大丈夫なように、万端整えていられているだろうか?
アラフィフになっても自省ばかりしている娘である。