「死にたい」と思ったことはありませんか?
ちょっと古いデータですが、2016年厚生労働省の意識調査では、自殺したいと思ったことがある」と答えた人の割合は成人の4人に1人だったそうです。警察庁の自殺統計によると、実際の自殺件数は7年連続で減少しているそうなので、死にたいと思うことがあっても、踏みとどまれた人が多かったということなのでしょう。
「死にたい」と思う理由は、人それぞれ千差万別の事情があるのでしょうけれど、多くの場合は、逃れたい具体的な理由があるのではと思います。
例えば、
「仕事や事業、職場がうまくいかない」
「金銭的に生活が苦しい」
「いじめにあう、疎外される、孤独になる」
「家族や、大切な人を失った、破局した」
「嫌なのに、避けられない人間関係に疲れた」
などなど…
死を考える時は、きっと出口が見えず誰にも助けてもらえない、辛い毎日が連続。
でもそれは逆にその辛いことが消えれば、本当は生きていたいと思うはずです。
そんな具体的に辛い状況がないにもかかわらず、「死にたい」と思うことはありませんか?
私は、あります。
死にたいと言うより、消えたいと言ったほうが近いかもしれません。
電源を落とすように、自ら生きている機能を止めて、いなくなってしまいたいと思うことが、時々あります。
本当に死にたいんじゃない
仕事があり、友人もいて、両親や兄弟、親戚たちとの関係も円満で、生活にも困らず、健康で、不自由のない生活をしていて、それなのに生きることをやめたいと、この世から消えてしまってもいいと思うのです。
ふとしたきっかけで、自分を殺してしまいそうな気がして怖くなる。
だから、駅のホームではフラッと落ちたくならないように、なるべくホームの中心を歩くようにしているし、高い建物のベランダには近づきません。
落ちてしまいそうな気になるから。
刃物も怖いので、必ず見えないようにしまっています。
そういうと、「本当は死にたいなんて思っていないんだろう」ということになりますね。
そう、私は死にたいんじゃない。
なのに、生きていることを止めたいと、もう残りの人生などいらないと思ってしまう。
今までの人生を振り返ってみる
これまでの人生、輝かしいとは言わないけれど、自分の意思でやりたいことを精一杯やって、たくさんの思いを叶えて生きてきました。
気恥ずかしいけれど、人生は楽しいって本当に思ってきました。
「これがゲームならこんな楽しいゲームはない」と。
「最後のサイコロを振ってあがったら、もう一回ゲーム再開したいくらいだ」と。
「無駄だった時間は一つもない、生きてきたすべての時間がとても愛おしい」と。
心から、そう思っていました。
それなのに、なぜか、これから先の時間が、意味のない空洞のように感じるのです。
何故なんだろう…
老いていくことが怖い
人の一生が100年だとしたら、私はちょうど折り返し地点を少し過ぎたところです。
身体の機能が少しずつ劣ってきているのを感じ、視力や髪、肌など、体のあちこちに、今までに経験したことのない変化が起きてきました。
自分自身が、これからどうなっていくのか分からない不安。
そんな不安ばかりを考えることが、多くなりました。
人は生物、経年変化はしていくもの、なのに、それを受け入れる強さが無い。
本当はもっと強く、この経験したことのない自分自身の変化に向き合っていきたい。
できることなら、これから何年も歳を重ねて、
年輪を刻み、苔むして、自分の根で立つ凛とした艶やかな古木になりたい。
私は私を殺さない
105歳で他界された日野原重明先生の著書「生きていくあなたへ」の中に、
「人生の午後をどう生きるか。午後は午前よりも長いから」
という言葉がありました。そして、
「人生の午後が長いというのは、幸せなことです」、とも。
だから、私は私を殺さないで生きていきたいんです。
今、私はちょうど正午、昼餐が終わった昼寝の頃、
これからが、長い人生の午後です。
変わっていく自分を慈しみながら、小さな挑戦を続けて、暮らし続けていく。
死にたくなると、最近、そう思い返しています。
死にたい人を応援するつもりはありません。
生きているって何だろうという人間の永遠のテーマを問う気もありません。
いずれ、もっと、老いた時、
時々ふっと居場所が分からなくなる人に寄り添って、
広い枝先で囲ってあげられるような古木になれたら、そう思っています。