何でこの話題を書こうと思ったかというと、ある記事への書き込みを読んで泣いたから
読んだのは、今、是非の議論の真っ只中にあるGO TO キャンペーン記事。
そして、その記事への書き込みコメントの応酬。
旅行業に投げつけられる、その言葉が、痛い、痛い、痛い。
書き込みの言葉は、まるで霧か煙の向こうから一斉に放たれる矢のようで、
私自身に直接向けられた言葉ではないのに、身体中に刺さってくる。
説明しようのない苦しさに絞めつけられて、泣きたくないのに涙が零れる。
5月に、自らの命を絶ってしまった木村花さんのことを思い出します。
今、自分の業界への誹謗を見て、
その痛みのほんのわずかですが、感じられる気がします。
個人が受け止める言葉の刃物は、どれ程、痛かっただろうと。
GO TO批判への憤りと、想像する木村花さんの痛さが重なって、
政策の是非とは別の論点ですが、GO TO絡みで書いています。
記事の発端は、ある人が投稿した逼迫した観光従事者の声
その記事はネガティブで極端な部分が多く、突っ込みどころ満載なのですが、
(「そこまで言わなくても」と思うほどの内容なので、あえて共有はせず)
ただ、その記事が本当なら、書いた人は間違いなく、崖っぷちの観光業の人です。
なぜなら、こんなことを言っているから。
長い冬のような今の感染状況を抜けた先の春で、この業界はおそらく殆どが生きていないという実感がある。どの業界よりも早く影響を受け、収入はゼロからマイナスとなり、どの業界よりも遅く影響から脱するから。
そして、最後に言っていたのは、こんなこと。
今も最前線で働く医療従事者や今月の豪雨で被害を受けた地域にまず支援を、補助を、賛成だ。なんならキャンペーン予算の半分を持って行ってくれても構わない。けれど今このタイミングでキャンペーンがなければこの業界は死ぬ。
キャンペーンが業界への補助ではなくあなたへの補助なのは、あなたの助けを何より必要としているからだ。
「死ぬ」など安易に口にしてほしくないし、
業界の死など覚悟してないし、そんなことは絶対にない。
けれど、今、業界全体で、体力の底が見えてきているのは事実。
2020年下半期を前に、すでに多くの会社が人員整理・早期退職に舵を取っています。
この執筆者が、仕事ができるのか出来ないのか、優秀なのか窓際なのか、
そんなこと分かりませんし、知りません。
でも「死ぬ」という言葉を使ってまで、記事を書いたのは、
自分たちが置かれている場所が、本当に死活問題と訴えたかったからです、
きっと。
人は姿を見せなければ、どんな酷い言葉でも投げつけられるものなのか、
記事に書き込まれた100以上のコメントにみられる非難、侮辱、嘲りの数々。
・・・コロナごときで客が減った業界が生きていく意味あんの?・・・
・・・観光業が生き残れなくても関係者以外、関係ないでしょ。・・・
そんな会社潰れてしまえだの、もう死んでんじゃないだの、あれや、これや、
(もうこれ以上、引用できません😢)
平常時だったら、こんなこと聞いても全然気にせず、
逆に「バカにすんなよ!」「観光業をなめんなよ」
くらいの勢いで、笑い飛ばしたと思います。
でも、今はさすがに違った、予想外のグサグサでした。
こんなことを言う人たちは、私たちとは全く無関係な人たちだと分かっていても、
書き込まれた文字を見て震えがきて、涙が出てくる。どうしてだろう。
それは「要らない」と言われているように感じたから。
自身の存在を「余計なもの、無くなってもいいもの」と否定された気がしたから。
「他人の不幸を嘲る人の悪意が悪意」が見えたから、
だと思います。
そして苦しくて泣いたのは、「私たち、要らないのかな」と絶望したから。
木村花さんが亡くなった理由とネット中傷を短絡的に結びつけることはできません。
でも一つ思うのは、彼女が感じたのは、絶望だったんじゃないでしょうか?
自分が今いることに意味があるのか、
今、どうやって存在したらいいか、何処に向かったらいいか、
それが分からない「絶望」へ追い込まれたんじゃないかなと思うんです。
そして、その絶望を呼んだのは、「刃化した言葉の数々」だったのではないかと。
そして、某ジャーナリストの爆撃のような記事を読み、歯軋りをし腹を立て、殺気立ち、今度は、自分の中の敵意を見ることに
そのジャーナリストだか何だかの人が言うには、
「観光ビジネスを活性化させようということ自体、時代錯誤の“愚かな政策”。
そもそも観光ビジネス自体が、補完的な産業に過ぎない。
富を創出する産業ではなく、消費するだけ。
労働集約型のサービス産業で、資本収益率は高くない。
労力も時間もかかり、平均賃金も低い。」
「観光ビジネスは斜陽産業。これ以上の成長は望めない。淘汰される。」
平時にこんな意見を言われても、これもまた、何とも思いません。
「補完産業って、どこまでが観光業だかこの人知ってんのかねー」
「観光はモノ作って売ってんじゃないんだよ、消費が心の富を産むんだよ」
「観光業が淘汰?ハハハ、アホか」
くらいの鼻息で蹴飛ばしたと思います。
でも、今は違う。今は言われたくない。
不要な産業で淘汰されてていいなど、
個人の意見だろうが、どんな作家だろうか、ジャーナリストだろうが、
絶対に言ってほしくない。
「偉そうに何を言うんだ」と苦々しく思う。
「こういう奴が、観光ヘイトを生むんだ」
と、会ったことも話をしたこともないのに、メラメラ敵意が生まれてくる。
更には評論ぶった文章に、知りもしない業界の表面だけをドラスティックに書いているだけじゃないかと、邪念と嫌悪すら沸いてきます。
そして今度、私の中に創られたのは「言葉が生んだ敵意という刃物」でした。
不特定多数から不特定多数へ発信する時、一番大切なのは、存在自体を否定しないこと
批判、酷評、不満、ネガティブ発言は多数あります。
でもベースになければならないのは、自分が発した言葉を受け取る人への思いやり。
当たり前のことですが、評論でも書き込みでも。
強い発言も激しい意見も辛辣さも、そこに思慮と思い遣りがあれば、大抵は受け止められるのだと思います。
ネット上で、過激な発言ほど注目をされる事態は、今や抑えようがありません。
軽はずみでその場限りの言葉の応酬は、
傍観者からすれば「炎上している」、火事見物みたいなものです。
でも、その渦中で「燃やされている」人は、
八方から言葉の矢を放たれて火を付けれらて、炎上の中に置かれて、
何処にも逃げ場がなくなったら、未来はないぞ、消えてしまえと言われたら、
その言葉は、自分に向ける刃か、他人に向ける刃になるのではないでしょうか?
人を簡単に傷つける社会、共感できない社会
昨今、他者と自分を重ね合わせる「共感力」が希薄なような気がします。
自分と違う者への理解は難しいですが、
異なる職業、業種、異なる人種、性別、年齢、様々な異種への共感と思い遣りが、
今、最も求めれれている時です。
なぜなら、今、世界中が同じ困難に直面しているのですから。
地球上の生物で、単語をつなげ文で表現する能力を持っているのは、人だけです。
その言葉が、人を陥れ、傷つけ、殺めることが少しでも無いように。
言葉が刃物にならないように、と本当に心から思っています。