彩のChii-Kura記~☆

猫と小さく暮らす旅行業アラフィフの独り言

【To be, or not to be...】生きることを迷う人、死ぬことを探る人へ

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クラゲの一生

数年前に水族館のナイトミュージアムで、クラゲの水槽の前で聞いたこと。

水槽は、夜でも照明に照らされて、その明かりの中をクラゲは漂うように泳いでいました。

 

クラゲの寿命は短くて、生殖すると命を終えてしまうそうです。

次世代を作ると、もう役割は終わったと思うらしい。

(クラゲは、そんなこと考えてないと思うけど(汗))

 

ずっと明るくしていると、クラゲのライフタイムが勘違いして、生殖しないらしく、

「クラゲが死なないために、明るくしています」と係の人は言いました。

(本当かな)

 

でも、

「子孫を残して自分の生涯を終えるのは、生物の基本かもしれないな」

と、なんだかその時は、納得して眺めていました。

 

生物の生死って、意外とシンプルなことなのかもしれない。

他者の行為で偶然、生まれて、

成長して、生殖能力を得て、次の世代を生み出して、死んでいく。

 

ただ、人が他の生物と違うのは、

行為に感情があって、自種の存続だけが目的でないこと。

それならば、逆を返せば、

次の世代をを作ることだけが、人が生きる理由ではないってことだよな。。。

 

それでも何かを生み出すことが、生きている証になるのなら、

人が生涯を終えるまでに、根本的に生み出すものって、何なんだろう。

もしかしたら、それは、次世代の種ではなくて、自分自身なんじゃないかな。。。

 

だから、何千年にも渡って、人類は、

怖れや祈りを、絵に描いたり、

葛藤や不安や喜びを、文章や小説や詩にしたり、

そうして、自分の中で自分自身を見つけようと生み出そうとして、

幾世紀も繋いできたんだろう。

 

だとしたら、

自分の中で自分をちゃんと産むまで、命を絶えてはいけないのかもしれない。

何回も、何回も、自分の中で、

自分自身を産む心の行為を、続けていかなければいけないのかもしれない。

ずっと身籠ったままで生み落とすことなく、生物としての機能が終わったとしても。

 

言葉の相対性

言葉には、「前後」「左右」「東西」のように方向が相反する言葉と、

観念が相反する言葉があります。

観念が相反する言葉とは、たとえば、

「光と影」

「過去と未来」

「放任と束縛」

「寛容と厳格」

「静寂と喧騒」

そして「生と死」

 

名詞の「生死」を動名詞に置き換えると「生きること・死ぬこと」になります。

けれど、この2組の言葉は、実は持っている観念が全く違う。

「生きること」の相反する言葉は「死ぬこと」じゃない。

 

なぜなら、

「生きること」は時間の持続で、「死ぬこと」は時間の停止だからです。

「生きること」は、「生き続けること」

でも、

「死ぬこと」は「死に続けること」とは言わないでしょう。

進行形になるということは、その先に続く選択肢・可能性があることです。

死ぬことにはそれがない。

だから「生きること」と、その先の選択肢がゼロの「死ぬこと」は相反しないのです。

 

だとしたら、人がもう生きたくないと思う時、

それは、死にたいのではなくて、

生きることを止めたいと、思っているのかもしれません。

 

一度止まったら二度と動かない人の機能

私は面倒な性格で、それでは、人が生きることを「止める」とはどういうことだろう、と考えるのです。

人の身体を生命の機械(システム)としたら、

この地球上にあるすべてのシステムの中で、最も優れた機械であることは間違いない。

その人体機械を止めるとはどういうことなのか???

 

まず、「止まる」には2種類あって、

① 機能は十分なのに止まること

たとえば、

・ガソリンがなくなって、車が止まる

・ネジが切れて、時計が止まる

いずれも、給油やネジ巻きをしなければ、永遠に止まったままで、動きません。

でも、その機能が正常なら、ガソリンを入れネジを巻けば、もう一度動かすことができます。

 

② 機能しなくて止まること(壊れるってこと)

そうなったら、ガソリンを入れてもネジを巻いても、動かすことはもうできません。

仮に修理出来たとしても、不具合が次の不具合を生んで、徐々に誤作動を起こして、

いつの日にか、止まったままになる。

 

人体機械の場合なら、病気や加齢でで生じる不具合ってことでしょうか。

そしていずれ機能自体が止まることになる。

まるでスイッチをいれても点かない明かりのように。

 

人の身体機械の止まるは、当たり前のことですが1種類しかない。

機能も十分、どこも悪くない健康体でも、

一度その機能を止めたら、もう二度と動かすことができません。

再び酸素を送っても、養分を注入しても、もう、二度と動くことはない。

時計や車の何倍も精巧な仕組みなのに、身体の「止まる」は1回しかないんです。

 

生きている時は、死を選べるけれど、死んだ時は、生を選べない

当たり前すぎて、バカみたいな考え方だとは思うけど。

でも、「生きること」には「生きると死ぬ」の2つの選択肢ある。

選べるっていいと思いませんか?

 

「死んだら生きることを選べないけれど、生きている限りは死ぬことを選べる」

変な考え方かもしれませんが、私は時々、そんな風に思っています。

 

たとえば、

一生ご飯だけしかなかったら、食べたくないと思う時が来るかもしれないけれど、

「パンもありますよ、ご飯が嫌ならクロワッサンでもいいですよ」そう言われたら、

もう1回くらいご飯でもいいと思えたりしないでしょうか?

 

たとえばの話です。

 

自分の命の権利

人は誰でも、「生きること」と「死ぬこと」を選ぶことができます。

だから、どちらを選んでも、それは他人がとやかく言うことでじゃない。

 

そして同時に、決して他人が奪ったり、強制終了してはならないことです。

その人の命は、その人の意思と機能で、司られなくてはいけないんです。

誰か、別の人の判断や感情や、姿の見えない社会や紛争や犯罪で、

そんなもので、決して奪われてはいけない。

 

自分の命の権利を持っているのは、自分だけです。

だったら、その権利、もう少し、持ち続けてみませんか?

もし、生きるべきかを迷ったら。

 

To be, or not to be....、 それなら、もう少し、To beでいいのでは。

例えば、雨の日が続くなら晴れる日が来るまで、

その次は季節が変わるまで、そしてその次…

 

たった1回の「止まる」選択ですから、ゆっくり時間かけて迷っていい。

そしてできれば、

ゆっくりとその機能を失って、老朽化して、

静かに止まっていくのを見届けていくのはどうですか?

 

世界中でたった一台しかない、自分のための自分という機械だから。